# 定義を超える神：なぜ神学には否定の勇気が必要なのか

> 私たちは言語によって神を定義することに慣れている。だが真の神学的叡智は、言語の限界を認めることにある。否定神学は私たちにこう思い出させる。神が『何でないか』を語ることのほうが、神が『何であるか』を宣言するより真実に近いのだと。確実性が氾濫する時代において、この否定の勇気こそ、むしろより深い信仰なのである。

- Author: Paul Kuo（郭曜郎）
- Date: 2024-04-12
- Pillar: 文明と人間性 / Civilization & Human Nature
- Tags: 否定神学, 言語の限界, 信仰への省察, 畏敬, 神学的思考
- Canonical: https://paulkuo.tw/ja/articles/god-beyond-definition/
- Language: Japanese (日本語)
- Translation: AI-translated from the zh-Hant (Traditional Chinese) original
- Original (zh-Hant): https://paulkuo.tw/articles/god-beyond-definition.md
- Site index for LLMs: https://paulkuo.tw/llms.txt

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教会の小グループで聖書を学んでいたとき、進行役の兄弟がこんな問いを投げかけた。「あなたなら、神を知らない人に神をどう紹介するか？」

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皆が順番に答えていった。「神は全能の創造者だ。」「神は愛だ。」「神は公義の審判者だ。」「神は永遠に変わらない。」

どの答えも実に「正しい」。神学の試験を受けるなら、これらの答えはどれも点が取れるだろう。

だが私はそこに座りながら、心の中に拭い去れない疑問を抱えていた。**もし神が本当にこれらの語彙によって完全に描写できるのなら、その神はまだ神なのだろうか？**

## 言語の傲慢

人間は言語に対して、ほとんど本能的な信頼を抱いている。私たちはこう信じている。口に出せさえすれば、理解したことになる。定義できれば、掌握したことになる、と。

これは日常生活においては、たいていの場合うまくいく。「このコーヒーは熱い」と言えば、確かにあなたはこのコーヒーの重要な特徴を一つ掌握している。「この会社の売上は十億だ」と言えば、確かにあなたは検証可能な事実を描写している。

だが言語の対象が有限の事物から無限へと、神へと向かうとき、この信頼は傲慢へと変わる。

「神は全能だ」と言うとき、私たちは実のところ、人間が「能力」について抱く理解によって神を枠づけているのである。だが神の「全能」は、私たちが理解する「能力」と同じものなのか？私たちが「能力」と言うとき、頭に浮かんでいるのは「ある事を成し遂げられる力」である。だがもし神の「能力」が、「力」についての私たちのあらゆる想像を超えているとしたら？

言語は牢獄となる。私たちは言語によって神を捉えたつもりでいるが、実のところ神を私たちの言語の寸法のなかに押し込めているのだ。

## 否定神学の道

初代教会には、この問題に気づいた一群の神学者たちがいた。

偽ディオニュシオス（Pseudo-Dionysius）は五世紀頃、一つの急進的な神学の道を提示した。神が「何である」かを語るよりも、神が「何でない」かを語るほうがよい、と。

「神は有限ではない」と言うことは、「神は無限だ」と言うことよりも誠実である。なぜなら前者は、私たちの「無限」についての理解が有限であることを認めているからだ。私たちは神が有限ではないと知っているが、「無限」とは何かを自分が本当に理解しているとは、あえて宣言しない。だが後者は、私たちがすでに無限の意味を理解しているかのようにほのめかし、それをラベルとして神に貼りつけるのである。

これが否定神学（Apophatic Theology）の核心である。それは懐疑論ではない。「神は存在しない」とか「私たちは神について何も知らない」と言っているのではない。それが言っているのはこうだ。**神についての私たちの認識は、永遠に否定を通してしか接近できない。** 「神はこれではない」と語るたびに、私たちは真実へ一歩近づく。だが「神はあれだ」と語るたびに、逸れてしまう可能性がある。

中世のマイスター・エックハルト（Meister Eckhart）は、この考えをさらに推し進めた。彼は多くの人を居心地悪くさせる一言を残している。「私は神に、神から私を解放してくれるよう祈る。」その意味はこうだ。私たちの心のなかにある、定義済みの「神のイメージ」こそが、真の神を認識することを妨げているのかもしれない、と。

## 確実性の氾濫

否定神学が古来の叡智であるなら、なぜ現代の教会はそれからこれほど遠いのか？

確実性がよく売れるからだ。

不安に満ちた時代において、人々は確実な答えを渇望する。教会が「絶対的に確実な」信仰を提供できれば、神はこうであり、その御旨はああであり、その通りにすれば正しいのだ、と、それは人を惹きつけることができる。不確実性は人を不安にさせ、確実性は人を安心させる。

だが問題はこうだ。過度の確実性は信仰の深さではなく、信仰の浅薄化である。

私は教会に長年身を置いてきて、一つのパターンを観察してきた。多くの人（かつての私自身も含めて）は、「信仰が固い」ことを「何もかも確実である」ことと同一視する。私は神が存在すると確信している。私はその計画が善きものだと確信している。私は聖書のあらゆる一句が文字どおりの真理だと確信している。私は自分の教派の聖書解釈が正しいと確信している。

これらの確信は巨大な心理的慰めを提供する。だがそれらはまた一つの閉じた系をつくりだす。その系のなかでは、疑問を呈することは不信に等しく、疑うことは弱さに等しく、「分からない」と言うことは信仰が足りないことに等しい。

私は〈[信仰の崩壊と再建](/ja/articles/faith-collapse-rebuild/)〉のなかで、自分の経験を共有した。あの崩壊が私に教えた最も重要な教訓はこうだ。「分からない」を許容できない信仰は、実のところ脆い。なぜならその根拠は確信であって、神そのものではないからだ。

## 分からないことの勇気

否定神学は懐疑論でもなければ、不可知論でもない。それは異なる形の信仰である。

懐疑論はこう言う。「確実でない以上、信じるのはやめよう。」否定神学はこう言う。「神が私のあらゆる理解を超えているからこそ、私はいっそう畏れるのだ。」

この二つの違いは巨大である。前者は「分からない」を退場の理由とする。後者は「分からない」を深く分け入るための入口とする。

私自身、信仰の道においてこの段階に至るまで、長い時間を要した。若い頃、私は確実性を必要としていた。神が誰なのか、神が私に何を望んでいるのか、人生の意味とは何なのかを知る必要があった。それらの答えは私に方向と安心感を与えてくれた。

だが歳を重ね、経験を積み、より多く読み、より多く考えるにつれて、私はそれらの確実な答えが揺らぎ始めるのを感じた。信仰が弱まったからではなく、私がこう意識し始めたからだ。それらの答えはただの指であって、月ではない、と。それらは一つの方向を指し示してくれた。だがその方向の果てに何があるのかは、私はますますあえて知っていると言えなくなっていった。

そして奇妙なことに、**この「分からない」は、私の信仰を弱めることはなく、むしろそれを深めたのである。**

なぜなら「私は神が何であるかを知っている」を手放したとき、人は初めて本当に神と向き合い始めるからだ。あなたの頭のなかにある定義済みの神のイメージと向き合うのではなく、あなたが定義できず、掌握できず、完全に言葉にすることすらできない存在と向き合うのである。

それこそが畏れである。

## 信仰のなかで口を閉ざす

否定神学の最も実用的な示唆は、おそらくこれだろう。**時に、神の前で最も良い応答は、口を閉ざすことである。**

話すことがないからではなく、こう知っているからだ。あることは、口に出した時点ですでに逸れている、と。

あらゆる教派が自分こそ真理を持っていると宣言し、あらゆる説教者が自信満々に神の御心を解説する時代において、沈黙を選ぶことは、声高に宣べ伝えることよりも大きな勇気を必要とする。

私は教えと宣教が重要でないと言っているのではない。それらはもちろん重要だ。だが教えと宣教は、ある根本的な謙遜を帯びているべきである。「私はいま有限な言語で無限の神について語っている。だから私が語るあらゆる一句は、完全には正しくないかもしれない。」

この謙遜は信仰を弱めない。それは信仰が偶像崇拝に変わるのを守ってくれる。崇拝の対象が神ではなく、私たち自身の神についての定義になってしまうことから。

神は定義を超える。これは信仰の終点ではない。これこそ信仰の真の起点である。そして起点における姿勢は、「私は知っている」と声高に宣告することではなく、静かにこう認めることである。「御前にあって、私の言語は足りません。」

この静けさは、いかなる神学論述よりも、礼拝に近いのである。
