TL;DR — ある実験教育機関の学期評価:三学期制(T1/T2/T3)、各教科一ページのレーダーチャートと記述所見で構成され、合計点も等級もない。結語ページには明文で「点数の高低そのものは重要ではない」と書かれている。同じ学年に、同じ子どもが外部講座で受け取ったのは満点五百点の総合点と文字等級だった。この記事では、並存する二種類の評価を手がかりに問う——点数を使わない評価は何を書き、何を担い、何を代償とするのか。

子どもの 2015 年から 2016 年の学習ファイルを整理していたとき、三つの学期評価が出てきた。細かい内容はもう忘れていた。

八ページのプレゼン形式の文書、表紙の次から一教科一ページ。最後まで読んでも合計点がない。等級もない、順位もない、「努力賞」も「要改善」のスタンプもない。その年、子どもはある実験教育機関に通っていた。三学期制——T1、T2、T3、各学期およそ三ヶ月、学期末にこういう評価を一部ずつ受け取る。

「点数なしの評価」と聞くと、多くの人は「何も評価しない」を想像する。この三つの文書が語るのは逆のことだ。点数を使わないからこそ、評価はむしろ多層になる。

一教科一ページ:レーダーチャートと一段の文章

各教科のページは同じ版型だ。左にレーダーチャート、右に所見文。

学期評価の教科ページ:左側に多次元レーダーチャート、右側に三段構成の記述所見。

学期評価の教科ページ(人文科目):左にレーダーチャート、右に記述所見。文書はぼかし処理と匿名化を施してある。

レーダーチャートの次元が、この評価を読んでいて最初に足を止めた箇所だ。人文科目では積極的参加・構成力・表現力・持続性、後の学期からは批判的思考が加わる。数学科目には議論と協働・数感・自己学習がある。プロジェクト科目にはチームワーク・作品の独自性・責任感・持続力がある。読解科目の次元(情報の取り出し・統合と解釈・熟考と評価)は、国際的な読解力調査 PIRLS の理解プロセスと同じ系譜にある。

これらの次元が従来の成績表のどこにあるか考えてみると——存在しない。「持続性」「リソースの活用」「議論と協働」は合計点には決して現れない。しかし十年後に振り返れば、学習者がどこまで伸びるかを本当に左右するのはそこだと分かる。

次元は固定でもない。教科が変われば、学期が変われば、レーダーチャートの軸も変わる。評価ツールが学習を追いかける。学習が評価ツールに合わせさせられるのではなく。

所見は何を書くか:強み、境界線、次のステップ

右側の所見文を読み重ねると、安定した三段構成が見えてくる。まず今学期の具体的な課題の中で観察された強みを語り、次に注目すべき成長の境界線を示し、最後に次のステップへの提案で締める。

匿名化すると、文体はおよそこういうものだ——「プロジェクトの遂行において自分なりの考えをしっかり持っており、メンバーとの協働にも積極的だが、アイデアを伝える場面で言葉が追いつかないことがある。この部分をさらに伸ばすには、意識的に練習を重ねることを勧める。」

三つのことを指摘しておきたい。第一に、所見のすべての評価は具体的な授業内の出来事——あのプロジェクト、あの討論、あの作品——に紐づいている。根拠が先にある。第二に、情意と社会性の成長が正式に記録される。自分の考えを口に出せるようになった、メンバーとの衝突が減った、リーダーシップを発揮し始めた——点数制では置き場のないこうした観察が、ここでは本文の中心にある。第三に、所見の結びは常に前を向いており、次の学期に練習できることを指している。今学期の最終判決を下しているのではない。

後期の学期にはさらに二つの変化が現れた。人文科目では二人の担当教師の所見が並記され、生徒の自己評価も加わる。読解科目のレーダーチャートには事前・事後二本の線が重なり、成長が直接目に見える。評価はもはや一人の教師による一方的な裁定ではなく、複数の視点が交差するものになっている。

「点数の高低そのものは重要ではない」

三つの評価すべての結語ページに、保護者へのひと言がある。原文のまま引く:

学期評価の目的は、皆さんに無界塾における各教科の学習状況をお伝えすることです。レーダーチャートの相対的な点数の高低そのものは重要ではなく、その教科のいくつかの学習上の重点における状態を示しているにすぎません。保護者の皆さんには、叱責や詰問ではなく寛容な励ましをもって、授業の中でどうすればより良く学べるかをお子さんと話し合っていただけることを願っています。

この一段で、設計全体の意図が語り尽くされている。評価の機能が審判から対話素材へと変わる。子どもに位置を与えるのではなく(何位か、どの等級か)、保護者・教師・生徒の三者に共通の観察記録を渡し、「次にどう学ぶか」を話し合う足がかりにする。

十年 Seesaw〉では、学習歴程データベースにおける「第三者フィードバック」の価値について書いた。これらの評価まさにその第三者フィードバックだ——タイムスタンプがあり、具体的な出来事があり、教師の署名がある観察記録。数年後、それらは能力の証拠の中でも最も偽造しにくい層になっていた。

同じ年、もう一方の評価は文字等級をつけた

同じファイルフォルダに、もう一種類の評価が入っていた。

その年、子どもは外部の英語講座にも通っており、講座の事業者は毎学期評価カードを配布していた——十項目それぞれを一から十点で採点し、合計五百点満点に換算し、文字等級まで添えたものだ。同じ子ども、同じ学年、まったく相反する二つの評価哲学が、私のファイルキャビネットに並んでいる。

これを良し悪しの対決として書くつもりはない。点数制には本物の機能がある。簡潔で、比較しやすく、機関をまたいで通用し、保護者が一目で位置を把握できる。記述制には本物の代償がある。学期ごとに各教科、人が書く観察記録は教師の膨大な工数を要する——この費用対効果の問題は〈教育革新の見えない台帳〉で試算した。合計点がなければ、主流の制度と接続する際に別途「翻訳」の手間がかかる。

違いは、二つのシステムがそれぞれ何を捨てているかだ。点数制が捨てるのはプロセス・情意・協働・成長の軌跡で、比較可能な数字を残す。記述制が捨てるのは比較可能性で、子どもの姿が見える記録を残す。どちらを選ぶかは、評価が順序づけのためにあるのか、学習のためにあるのかという信念による。

十年後、どちらがまだ役に立つか?

この記事を書いているとき、その英語講座の評価カードと三つの学期評価は、同じフォルダに十年入っていた。

十年後に読み返すと、等級にはもう何の情報量もない。それが教えてくれるのは、子どもが当時あるクラスで占めた相対的な位置だけだ——そのクラスはとっくに解散している。だが所見はまだ生きている。どの学期から自分の考えを口に出せるようになったか、どのプロジェクトで初めて調整役を担ったか——それらの観察をつなぎ合わせると、見える成長の線ができる。後にその線は、学習歴程データベースの中で最も重みを持つ証拠になっていた。

点数は子どもが今どこに立っているかを教える。観察は子どもが何になりつつあるかを教える。十年という時間は、来た道を振り返るのに十分な検証点だと思う。