腐った杖でも支え

老いた世代の信仰に謙虚に向き合う

大晦日の家には、いつも世代間の攻防が満ちている。

純朴な母は宗教団体の助けについて熱心に語る: 光明灯を点す良さ、善行の回向、朝山の益処を。

一方、独学の息子は理性的な連続質問を開始する: 「なぜ功徳は蓄積できるのか?」 「石を取り除くことが積徳なら、僕が往復して運び続ければ、もっと多くの功徳を蓄積できるのか?」

おばあちゃんの顔色は和やかさから次第に青くなり、最後は「ああもう〜あなたたちには話さない」で終わった。


理性を超越する血縁

祖母と孫の対話には、論理的な接点は運命的にない。 だがお年玉は相変わらず渡され、お年玉も相変わらず受け取られる。

親がいるから、情がある。 血縁は、理性よりもさらに緊密な結びつきである。

私は内心、あの「善行経済学」に同意しないし、功徳を積めば天に蓄積できるとは信じないし、ましてや現世の貨幣で買った光明灯が来年の祝福を予約できるなど信じない。

だが私は突然ある感悟を得た: 腐った杖でも、まだ使えるなら、それも良いものだ。


無重力人生の寄り所

父が去ってから、いつも依存していた母は急に方向感と目標感を失った。 彼女は人生のほぼすべてを失ったのだ。

老人は時の流れとともに、ますます老いていく。 前世紀を彼らとともに過ごしたあの宗教的信念は、若者にとっては浮雲のようかもしれないが、彼らにとっては無比に真実な依り所なのである。

彼らの孤独な心を慰めるのは、往々にして忙しい子どもたちではない。

もしこれらの「腐った杖」が家の長輩たちに付き添ってとぼとぼと歩ませ、寄り所を与えていなかったら、 外で奮闘し、世界を前進させていると自負する我々若者の、前進する力はおそらく大半が削がれてしまうだろう。


結語

謙虚は、決して容易な課題ではない。 それは妥協と降伏の要素を含んでいる。

我々が時として滔々と語り、自己の見解を述べることができるのは、 往々にして無知と単純さゆえに過ぎない。

人生は理性的な議論だけではない。 人生とは、真に真実に生きることである。