捨てにくい物がある。記念の価値があるからではない。かつて金を払ったからである。
海外用の通信プランを買った人がいた。現地に着いても、どうしてもインストールできない。設定を繰り返し、問い合わせを往復し、五時間が過ぎ、窓口もいくつか替わった。それでもプランは使えない。この時点で、もう一度試すのがいちばん合理的に見える。金はすでに払っている。諦めは、すべてが無駄だったと認めることに近い。
だがこの勘定には、すでに二つの部分がある。第一は支払い時に出した費用であり、使い続けても止めても、いまは戻らない。第二は、第一の支出を取り戻すためにさらに投入した時間、注意、感情である。前の一筆はサンクコストである。後の一筆は、いまも増えている。
不本意は、物をその場に止める
同じ仕組みを家に移すと、現れ方は操作の継続ではなく、処理しないことの継続であることが多い。高く買った、買い間違えた、手に合わない物が、棚の奥へ押し込まれる。使われてもいないし、送り出されてもいない。送り出す瞬間が、「当初の決定は望んだ結果を得なかった」と口にすることに似るからである。
こうして人は、その物のために場所を残し始める。いつか使うかもしれない。いつかまた好きになるかもしれない。捨てるより残すほうがましだ、と。物は機能を取り戻さないのに、空間を消費し続ける。他人が引き受けられたはずの物も、流通からいったん外れる。
ある住まい手が収蔵を整理したとき、高級バッグを二つ残し、残りは転売か寄付にした。整理の記録には、昇進や旅行のときに買ったバッグもあるとある。努力や経験を載せている可能性はある。ただし現在の素材は、最後に残した二つのバッグがそれぞれなぜ残されたかを述べていない。物の役割が「使う」から過去の証明の保存へ移ると、その場に鎖されやすい。
すでに払った金が、次の一手を決めてはならない
残すかどうかを判断するとき、まず価格を外してよい。問うべきは「当初いくらだったか」ではない。いま答えが残っている二つのことである。これから一年、使うか。自分は使わないとして、いま他人が使えるか。
前者は物を実際の生活へ戻す。後者は流通へ戻す。両方とも否なら、淘汰を扱う必要がある。誰かがまだ使えるなら、「うちに置く」を唯一の選択肢にしなくてよい。物がある家庭を離れても、価値が消えるわけではない。使用の機会を次の人へ渡すことでもありうる。
整理の現場では、有料で委託した十世帯の搬出が五百八十袋と記録され、うち百九十五袋はまだ使え、受け渡し可能な物だった。無作為標本ではない。比率を一般家庭に当てはめてはならない。人が思い出せるのは一事だけである。物は壊れてから去るとは限らない。まず凍結され、長年使われないまま、機会を失っていくことがある。
この二つの問いは、判断を過去から現在へ引き戻し、物を私的な記憶から実際の流れへ引き戻す。まだ使えるのに、当初の価格が高いという理由だけで棚に鎖されるなら、負担は空間の占有だけではない。引き受けの窓口が狭まっていく時間のコストもある。材質、規格、需要が変われば、保存がよくても次の使用者は見つからないことがある。
捨てがたさのすべてに、同じ物差しは使わない
記念品には、この判断は当てはまらない。保存しているのは記憶であり、使用頻度は当初から主機能ではない。「いつか使う」も、サンクコストと完全に同じではない。まだ来ていない状況に物を結びつけることである。期限を置き、その状況が本当に現れたかをあとで点検するのが向く。
したがって、サンクコストを見分けることは、ただちに捨てることではない。まず価格を次の一手から外すことである。支払い時にすでに清算された帳は、新たな空間、時間、気持ちで払い続けなくてよい。残す物は使われ、去る物は受け止められる機会を持つ。当初の決定が間違って見えなくて済むことより、物が再び流れ始めることに近い。
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