TL;DR — 1970年代、あるエンジニアが余命半年と宣告され、ヨーロッパへ渡ってパン作りを学び、自ら組み立てた食養生で生き延びた。この話は発酵の巨匠・志賀勝榮の「医食同源」に影響を与え、味覚的感動のスローブレッドの根底にある。

1970年代、大地修造(おおち・しゅうぞう)という日本人がいた。もとは新幹線の自動列車制御システムを研究するエンジニアだ。ある日、医師から癌を告知された。余命半年。

小麦のふすまや胚芽、そして乳酸菌が身体に良いかもしれないと聞いた彼は、イタリアとオーストリアへ渡ってパン作りを学んだ。パンを中心とした独自の食養生を組み立て、少しずつ身体を回復させていった。後に彼は、「大地法」というパン食養生の専門家になる。

この話を読んだのは、志賀勝榮のパンに関する著作の中だ。志賀はそこで、大地修造から乳酸菌と酵母菌の共生が人体にとって重要であることを本当に意識するようになったと書いている。志賀勝榮とは何者か、そして台北のあのパン屋との縁がどうつながったのかは、シリーズ第一回に書いた。

パンは薬になるか

パンを薬として扱う——それは民間療法めいて聞こえる。志賀が言っているのはそういうことではない。

五十歳を前にして、彼は「医食同源」をパン作りの核心に据えるようになった。考え方はいたってシンプルだ。人の身体は、食べて消化吸収したものでできている。ならば、きちんと食べることが健康を保つことに直結する。医療にお金をかける前に、本当に身体に良い一本のパンを食べる。

ただし、一線がある。「薬みたいなパン」を作ってはいけない。職人が作るものは、まず美味しくなければ話にならない。美味しくない健康パンに、意味はない。

「遅さ」がなぜ身体に良いのか

では、「身体に良いパン」の良さはどこにあるのか。答えは結局、「遅さ」に戻ってくる。速い時代になぜ遅い発酵が必要なのかはシリーズ第二回で論じた。ここでは身体との関係に絞って話す。

発酵は生態系全体が一緒に働く営みであり、単一の菌種の独り舞台ではない。生地の中には少なくとも二つの菌のグループが同時に棲んでいる。酵母菌は糖を二酸化炭素とアルコールに代謝し、パンを膨らませ、風味を生む。乳酸菌は糖を乳酸に代謝し、パンに酸味を与え、生地の中の雑菌を抑える。両者は共生し、どちらも欠かせない。これ自体が一つの複雑系であり、単一の変数で説明できるものではない。

分類菌種代表例パン発酵における役割
通性嫌気性酵母菌Saccharomyces cerevisiae、野生酵母(Candida humilis など)二酸化炭素を生成してパンを膨らませ、アルコールやエステルなどの風味物質を代謝する
耐気性嫌気性/通性嫌気性乳酸菌Lactobacillus sanfranciscensisL. plantarumL. brevis糖を代謝して乳酸(ホモ発酵)または乳酸+CO₂/酢酸/アルコール(ヘテロ発酵)を生成し、酸味を与え、腐敗菌を抑える。腸内細菌叢研究が注目する対象でもある
偏性好気性酢酸菌Acetobacterアルコールを酢酸に酸化する。生地の内部は酸素が乏しいためこのグループの役割は通常小さいが、開放培養の自然発酵種では現れることもある

工業用酵母だけで作るパンは、この生態系全体を単一の菌株に還元してしまう。数時間でパンを膨らませられるが、乳酸菌が関与する時間がない。速いが、貧しい。

切ったパンの断面、大小さまざまな気泡が見える
切ってみると、中は大小さまざまな気泡だ。酵母菌と乳酸菌が時間をかけて一緒に働いた跡である。

低温・長時間の発酵は乳酸菌を残す。乳酸菌は発酵を助けるだけでなく、腸内環境を整え、一部の病原菌から身体を守る働きをする。発酵が十分に進むと澱粉がグルコースに分解され、パン自体が甘みを帯びる。砂糖を加える必要がない。ふすまを含む全粒粉を使えば、精白粉に比べてミネラルも豊富だ。

味覚的感動の18℃・18時間発酵という手法は、その考え方に沿っている。SGS検査に出したところ、乳酸菌の量が一般的な製法の六倍以上あったとのことだ。

少し逆説的な話がある。私たちが「清潔で上質」と感じる真っ白なパンは、じつは歴史が浅い。志賀は著作の中で、高度に精白した小麦粉と高速ミキシングによる純白のパンは、戦後フランスで「発明」されたものだと書いている。それ以前、人々が食べていたのは色が濃く、ふすまの入ったパンだった。つまり、より健康的なほうだ。

腸内細菌叢の研究がここ数年で注目を集めているのは偶然ではない。スタンフォード大学が2021年に『Cell』誌に発表したランダム化比較試験では、36人の健康な成人を17週間追跡した。一方は高食物繊維食、もう一方は発酵食品を中心とした食事だ。結果、菌叢の多様性が安定して上昇し、炎症マーカーが低下したのは発酵食品グループだけだった。高食物繊維グループは食物繊維をいくら摂っても、菌叢の多様性に明確な改善は見られなかった。研究チームの解釈によれば、鍵は発酵過程そのものが残す代謝産物にあるかもしれない——菌の数だけの問題ではないということだ。

📊 主要データ

  • スタンフォード2021年RCT:健康成人36名、発酵食品グループは17週後に菌叢多様性が安定上昇・炎症マーカーが低下。高食物繊維グループは同期間に明確な改善なし(Wastyk et al., Cell, 2021
  • ヒトマイクロバイオームプロジェクトNIHが正式に立ち上げたのは2007年——腸内細菌叢研究が体系的な学問になってまだ二十年も経っていない

大地修造の食養生は1970年代の話だ。彼が拠り所にできたのは自分の身体だけで、実験室のデータはなかった。科学が追いついてくるのは、ほぼ半世紀後のことになる。NIHがヒトマイクロバイオームプロジェクトを立ち上げたのは2007年、スタンフォードの比較試験が発表されたのは2021年だ。証言が証拠に先行した。その間には、人の一生分ほどの時間が横たわっている。

病気になってから考えるのでは遅い

私は農食産業に十年以上関わってきた。パンが病気を治すわけではない。大地修造がパン食養生で身体を回復させたのは、彼個人の経験であって、普遍的な法則ではない。

味覚的感動の経営に携わるようになってから、「医食同源」という四文字の体感が変わった。食べ物を薬として扱うのではなく、毎日食べるものが少しずつ身体を作っている、という感覚だ。普段はあまり意識しない。たいていは身体に何か起きてから振り返る。志賀先生たちはそこまで待たなかった。複数の酵母を使い、十分に発酵させ、添加物を加えないパンが、健康的な食事を日常にするための一本になっている。

食卓の一皿:木の皿にのった全粒粉のトースト、ステーキと目玉焼き、青菜、そして赤ワイン一杯 食卓のもう一皿:木のボードにのったトースト、グリーンサラダ、肉そぼろと肉フレーク、スープ一杯
結局のところ、良いパンは食卓に戻り、毎日食べるものになる。

参考資料と関連リンク

志賀勝榮と「シニフィアン・シニフィエ」(日本)

映像

台湾(台日のつながり)

大地修造と「おおち法」

SGS 検査報告書(味覚的感動が委託、2016年)

検査したのは「発酵し終えた生地」であり、焼いたパンではない。数値は発酵の深さを反映する。上記の FAQ を参照。


本文における大地修造・医食同源・長時間発酵に関する記述は、志賀勝榮『パンの世界:基本から最前線まで』(講談社選書メチエ)を出典とし、著者による転述であって逐語訳ではない。乳酸菌検査データは味覚的感動の公式説明から引用している。本文は医療上のアドバイスではない。